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岩崎弥太郎と三菱四代

 『岩崎弥太郎と三菱四代』






岩崎弥太郎・弥之助兄弟を中心に、その子供たちを含む三菱四代を題材にした史話。

恥ずかしながら、TVドラマ「龍馬伝」で岩崎弥太郎のことを初めて知りました。

坂本龍馬も勿論魅力的ですが、個人的に泥臭いエネルギッシュさが際立つ
岩崎弥太郎がとても気になっていたところ、本屋で目に入って購入。

土佐藩地下浪人という低い身分から、大言壮語ともとれる言葉を吐き続け、
遂にはその言葉通り、一代で日本の海運業を制覇した、その生き様は興味深い。


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■少年時代の弥太郎

 「三国志」や「水滸伝」などの英雄が活躍する歴史書や講談を
 読みあさり、そうした書物に感化されて事故を英雄視し、
 「将来自分は、世の中に名を成すだろう」と
 公言するようになった

 「治世の能吏、乱世の姦雄になるのが、自分の夢だ」など、大言壮語を吐いた。

 偉人の多くが少年期を過ぎてからも、弥太郎のように大風呂敷を広げ続けている。
 平然と周囲に大言壮語を吐いている(龍馬も大言壮語の癖があった)。

 大風呂敷を広げるだけでなく、誰よりも勉強した。
 夜が更けると、行灯の明かりの下で必死に机に向かっていた。

■人脈

 郷廻の役についていた時代、漢学者、蘭方医、西洋砲術家、唐通詞(通訳)、
 清国やオランダ、英国の商人などに接触をはかった。

 このときの人脈が、後に土佐藩から長崎の土佐商会の経営をまかされた際、
 役立った。

 大志を抱いている幕末の若者たちは、できるだけ多くの人間とコネクションを
 つくっておくべく積極的に動いた。
 自分の尊敬する著名人のもとにアポなしで出向くことを、幕末の志士はよく
 やっている。
 格段に身分の異なる大名や公卿に、事前の断りもなく面会を求めるのは、
 当時は珍しいことではなかった。

 龍馬の勝海舟との出会いも、アポなしの押しかけがきっかけ。

■英雄、色を好む

 遊郭の女に入れ込み、藩から至急されていた公金に手を出してしまった一面も。

■わずか3年で岩崎家を再建

 土佐勤皇党が権力を握った藩庁で、栄達する道をあきらめたが、
 今度は岩崎家を富豪にすべく動き出す。

 安芸川の荒地の開拓をはじめ、たった1年で一町もの田畑を切り開き、
 開墾のさい、洪水の被害から新田を守る堤も構築。
 綿栽培を行い、官有林を伐採し、薪炭をつくって商人へ卸した。
 こうしてわずか3年の間に岩崎家は再建された

■はったりで信用を得る

 交渉術が見事。

 接待費を湯水のように使い、外国商人や長崎奉行所の役人たちを酒と女で
 篭絡してしまう。

 外国商人に対しては、自分が有力者であるかのごとく演出。

■龍馬の描いた夢を実現

 大政奉還決定後、新政府の発足前、閣僚の人選の際に龍馬は土佐藩の代表に
 自分の名前を入れず、西郷隆盛に理由を問われたところ、
 龍馬は「世界の海援隊でもやりましょうか」と答えたという。

 「世界の海援隊」は、一説には
 龍馬は新政府に入らず、海運会社や商社を立ち上げ、世界をまたにかけて
 活躍したいと考えていたのではないかという。

 そんな龍馬の描いた夢を、弥太郎はそれからわずか10年で実現。

■徹底的なサービス戦略

 政府の支援を受けた日本国郵便蒸汽船会社ができた当時、
 三菱商会はとうていそれに対峙できる力は持ってなかった。
 
 しかし、それからたった1年で、肩を並べるほどに急成長。

 理由は、徹底的なサービス戦略。
 「自分たちが士族であることを忘れろ」と厳命。
 まずは格好から入り、前垂れの着用を命じた。(前垂れは承認の格好)

■自分を漢の高祖にたとえる

 政府が三菱に海運業を一任しようと考えた際、
 すべてを弥太郎に一任することに不安だった前島密が
 「海運の実際に関して全く素人であるが、この重責をまっとうできるか」
 と聞いた。
 その際、自分を部下をよく統率する能力を持つ漢の高祖にたとえ、
 前島はその言葉に感激する

■常に国家を考える

 国家のために列強諸国に制圧されていた海運事業の回復を目指した。
 国家目的に立った為政者的見地から、事業を経営した。

 実は福沢諭吉の影響が大きく、「西洋事情」をはじめ福沢の著書を読み、
 福沢のとなえる実業立国という考え方に共鳴していた。
 いつしか両者は親交を深め、弥太郎は慶応義塾の卒業生を大量に三菱社員と
 して採用するようになった。

■第4の策まで考える

 「およそ事を計画するにあたっては、上中下三策を用意すればよいと
 いう考え方は、まだ十全でない。もしその三策が皆外れたならば、
 もはや如何ともしがたいであろう。故に余は、更に第四の方策を考慮して、
 あらゆる場合に備えることにしている」

 豪胆な反面、意外に慎重であり、神経質と人から評される一面も。

■堅実な経営

 経費を無駄にしたり、会社を私物化させるのを絶対に許さず、
 常に目を光らせていた

 弟が領収書を白紙に貼り付けていたのを、怒鳴りつけて
 使い古しの紙を使った場合と、全社で幾らちがうか計算させた話も。

■人材教育と人材登用術

 当時は超エリートであった大卒や外国人を多く採用。
 学校を創立して人材を育成。

■弥太郎の壮絶な最期

 幅広い交際のなかで、毎晩浴びるように外で酒を飲んだといい、
 それが胃をむしばんだのか、胃痛から胃癌となった。

 癌による胃痛と吐き気に苦しみながらも
 共同運輸との戦いに屈する姿勢を見せず、頻繁に部下に経営状況を
 報告させ、自ら指示を下した。
 側近は、一日40回も弥太郎の命令で本社と別邸の六義園を往復して
 連絡にあたった。

 最期の日、堂々たる遺言を告げ、息を引き取った。

■温厚沈着でありながら策士の2代目、弥之助

 弥之助が社長についてからわずか8ヶ月で三菱海上王国は霧散。
 しかし陸の三菱社を創業し、多角的経営展開をし、数年で強大な組織に
 した。

 政治に関心のないそぶりを見せながら、相当深く政治に介入している。
 政府から排除されることのないよう、さまざまな政治家と緊密な関係を
 持とうと努力した。

■寡黙な三代目、久弥、理想的社会主義者、小弥太

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帯には、
「カネと女を使い ハッタリで成り上がった男の 経営哲学」
とキャッチーなコピーがありましたが、決してそれだけでは
ありませんでした。

常に国家を思う志と、ある種のコンプレックスをバネとした成功への
執念ともいえる物凄いエネルギー、またそれを実現するための
徹底的なサービス戦略や金を締めるところとかけどころの見極め。

ますます岩崎弥太郎という男が好きになりました。
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